2008年 Archive





若木信吾×穂村弘トークショーをBOOK246へ聞きに行く。
若木さんが発行人、編集を務める「youngtree press」が10号をかぞえ、終刊する。
「ドキュメンタリー・スタイル・マガジン」といって、誰かのとても個人的な話(「茶飲み話」で、時として語られるようなこと)を、それこそドキュメントしている。
物書きではない人に、テキストを書いてもらったりする時に、「楽しい」や「悲しい」「嬉しい」という言葉を使わないで欲しい、と促すらしい。それは出来るだけ、フィルターが透明になるように。不思議なことだと思った。とても個人的な話のドキュメントなのに。
ただ、それがまるで、誰かが「自分の話」のように読む、ことになるのかもしれない。


今福龍太が著書『荒野のロマネスク (岩波現代文庫)』の中で、ロラン・バルトを引用しながら、こう書いている。


「自らの個別性を主体の科学に捧げ、提供しつつ、しかもその科学が自己を還元することも圧殺することもないような、ある一般性に到達するようにしむけること」。


とても素敵な文章だと思う。
若木さんは、「youngtree press」を5年間で10号作ってきて、どういうことをしたいのか、説明しようとしている間に終わってしまった、というようなを言っていたけれど、いつだって「言う人」は「それ」を「言うこと」ができない、のだと思った。







一般的なイメージとはなにか。多和田葉子の短編小説「海に落とした名前」に出てくる記憶喪失者は、犬を思い浮かべてご覧なさい、と言われて頭の中に図鑑の犬を思い浮かべる。いろんな犬がそこには住んでいたが、「自分の犬」はいなかった。
ダンサーは、身体のイメージの中に「自分の身体」がいるのだろうか。だとしたら、今目の前で動き出そうとしている身体が、他者に向けて圧倒的な説得力を持つのは何故だろうか。次の一歩がどうなるのか検討もつかないが、その一歩が踏み出された時には、その身体がそこにあることを知っていたかのように思う。そんな動き、身体が見たいと思う。
さて、記憶喪失のダンサーは、どう踊るだろうか。







POSTALCOのデザインに何故惹かれるのかを説明するのは難しい。使っているのだから、身体はその使い心地のことはよく知ってはいるのだが、自分ではない誰かにそのことを勧めようとしても、うまく言葉にできない。POSTALCOの鞄やステーショナリーを使ったときに、私は「そう、こういうものが欲しかった」、と思った。その前には、こういうものがほしい欲しい、とは思っていなかった、にもかかわらず。


昨年、世田谷ものづくり学校で展示会が行なわれた新作の鞄は、橋の力学を基に考えられた「ブリッジバッグ」。橋の構造は、重さの圧力を柱が分散するように出来ていて、その強度とバランスを応用し、作られた鞄らしい。しかし、始めから橋と鞄の関係性に着目していたわけではなく、元々橋が好きで、橋の資料を集めているうちに、鞄に応用できないか、と考えるようになったと、伺った。
POSTALCOの展示や鞄を見て、いつも感動するのは、関係のないと思われるものを結びつけるそのダイナミックな思考と、それらがサンプリングされていく際の心地よさにある。(しかし、その軽やかなジャンプは、「身体」や「モノを運ぶこと」からは離れていかない。着地点はいつも、私たちが、鞄を持って歩く道であり、ノートを広げてメモを取る旅先であり、手紙を書く机の上なのだ。)


そのような、機能性や外見の美しさだけではない、目に見えない"響き"や"揺らぎ"のようなものに、手にした人が誰しもそれを自分のためだと思ってしまう、効用がある気がする。そこには"物語"がある。POSTLACOの"物語"ではなくて、POSTALCOを使うことで、初めて気付く"私の身体の物語"だ。
それは、天気が良くて、いつもより少し長く散歩した時かもしれないし、急いでいるのに、ドアの閉まる電車に間に合わなかった時かもしれない。もしくは、隣に人がいる時、鞄の持ち手を変えた時かもしれない。
結局、私たちはお気に入りの鞄を手に入れた所で、それを片手に携えて、日々の生活に勤しむことになるのだろうが、POSTALCOの鞄たちは、耳に差し込んだイヤホンのように、些細な幸福を連れてきてくれるかもしれない。
鞄の中に、"物語"が入り込む隙間が少しだけある。それが、POSTLACOの"デザイン"ではないだろうか。


(「Thinking with My Feet--POSTALCOの気になること」展に寄せて)





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