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物語を書いたり、絵を描いたり、写真を撮ったりしない私も、少しは読んだり、見たりするのだが、それはいつも遅れた行為となる。最初の読者・鑑賞者(他者)は、語り手であり、画家であり、写真家であるのだから。
しかし、遅れてきた私も、時折それが書かれた(描かれた)場所で、彼らがそう書いたように(描いたように)、読み、見ることができる(私が読むように、見るように、彼らは書き、描いている)。たったいま紙に書き付けられた文字を書き手が読んだとき、画家や写真家が現前した光景と再び対峙したとき、おそらく彼らがそうだったように。
そうして読者や鑑賞者が神話的時間に沈み込み、「最初の読者、鑑賞者」の眼を獲得するためにデザインが唯一出来ることは(あるいは、失敗するかもしれないが)、その可能性を消さないことである。
文字が小さい。紙がガサガサする。この本は重い。頁を捲ったら、意外に軽やかだ。そうして、始原の遅れを抱えた私は、さっさと読み終わり、じっくり読み干し、一枚の前で佇み、立ち去り、何冊かの本、何枚かの絵、写真の「最初の読者、鑑賞者」になった。

「私にはすべてが別物に、全く新しく見えた。そこでもっと先まで見たいという好奇心に駆られた。それは、こういってよければ、どんなものに対しても起こる一種の間断のない驚きだった。もちろん、私は絵に描いてみたくて仕方がなかったが、これは私の手には負えなかった、...これまでのところ、私はどんな方法を使っても失敗してきた」(ジャコメッティ『私の現実』みすず書房、1976年)

(『typographics ti:』#266「TYPE RELAY」寄稿)








フランツ・カフカ『世界文学全集29 城 変身』河出書房新社/1962年
小島信夫『アメリカン・スクール』新潮社文庫/1967年
村上龍『限りなく透明に近いブルー』講談社文庫/1978年
レイモンド・カーヴァー『必要になったら電話をかけて』中央公論新社/2004年
多和田葉子『犬婿入り』講談社/1993年
村上春樹『ねじまき鳥クロニクル』新潮社/1994年
ロラン・バルト『零度のエクリチュール』みすず書房/1871年
ヴォルター・ベンヤミン『ベンヤミン著作集6』晶文社/1975年
三浦雅士『考える身体』NTT出版/1999年
柴田元幸+高橋源一郎『小説の読み方、書き方、訳し方』河出書房新社/2009年


「奇妙な文体に惹かれる。不安を与えられながら、同時に笑いが込み上げてきたり、酷く暴力的でエキセントリックな描写なのに、通低音のように静かな空気が流れていたり、淡々と語られる背後で驚異的なスピードで時間が進んでいたりする。文字を追っている最中、ずっと耳元で囁かれているような感覚を持つこともあれば、読後にどこか別の場所へ移動してしまっていることもある。"日本語"を読みながら"日本人"から遠く離れたりもする。
これらは、文体の持つ"属性"みたいなものによる作用だと思うのだが、よく分からない。きっと作者だって、そんなこと分からないだろう。ただ、そこには、高橋源一郎が「『固体』としての小説と『気体』としての小説と『液体』としての小説、それらを繋ぎ合わせている『ひとつのより大きい』何か」と呼ぶものがある。"タイポグラフィ"は、その変容する"何か"が他者の身体を通過し、もう一度変容した結果ではないだろうか。」


(『idea #343』、「タイポグラフィをめぐる書物」寄稿)







雨がザッと降って、風が吹いて、夏を連れ去った夜に、
ビールを飲みながら、窓を開け放って聴いた。
どんな音が鳴っていたのか、今はもう覚えていない。
ただ、短い音の断片が、"元の場所"に戻れず、"ここ"に取り残されている。
それだけで、"ここ"は"さっき"と随分と違う世界になったようだ。
また明日、あるいは窓を閉め切った冬の寒い日にも聴いてみよう。
その時にも、何も記憶を作らず、また別の断片を残していくだろうか。
おそらく、そうやって、"物語"は長い時間を読み継がれてきたのだ。


(CD『apart my surround』に寄せて)







優れた音は、予めそこにあったような音として、流れ出す。Penguin Cafe Orchestraの音楽は、いつでも違和感なく、台所の食器の音、カーテンの揺れる音、外から聴こえる犬の鳴き声のように響く。しかも、日常のちょっとした事件のような、お皿の割れる音、怒ったような強風や子供の泣き声といったユーモアも含まれているから、退屈しない。仕事に疲れたら、ペンギンの給仕がいるカフェでコーヒーを飲むのだ。


(『Rookies Life』「仕事場で聴く音楽」に寄せて)







テキストやイメージなどのマテリアルが、「印刷」や「本」というパッケージを通して、「形態」と「形体」を与えられる時、そこには固体が液体になるような、物理的変容があると思う。喫茶店には、「絞り立てオレンジジュース」というメニューがあり、コンビニエンスストアでは、オレンジ風味の「オレンジジュース」という飲み物を売っている。どれも、何かしらの「都合」で生まれたのだろうけど、一度そんな「都合」を気にせず、木からオレンジをもぎ、絞り、コップに注ぐまで、全部をやってみたいと思った。今回、そうやって作ったオレンジジュースを、「Zine's Mate Tokyo」という机の上に置くことにしました。


(アートブックフェア「Zine's Mate Tokyo」に寄せて)







一般的なイメージとはなにか。多和田葉子の短編小説「海に落とした名前」に出てくる記憶喪失者は、犬を思い浮かべてご覧なさい、と言われて頭の中に図鑑の犬を思い浮かべる。いろんな犬がそこには住んでいたが、「自分の犬」はいなかった。
ダンサーは、身体のイメージの中に「自分の身体」がいるのだろうか。だとしたら、今目の前で動き出そうとしている身体が、他者に向けて圧倒的な説得力を持つのは何故だろうか。次の一歩がどうなるのか検討もつかないが、その一歩が踏み出された時には、その身体がそこにあることを知っていたかのように思う。そんな動き、身体が見たいと思う。
さて、記憶喪失のダンサーは、どう踊るだろうか。







POSTALCOのデザインに何故惹かれるのかを説明するのは難しい。使っているのだから、身体はその使い心地のことはよく知ってはいるのだが、自分ではない誰かにそのことを勧めようとしても、うまく言葉にできない。POSTALCOの鞄やステーショナリーを使ったときに、私は「そう、こういうものが欲しかった」、と思った。その前には、こういうものがほしい欲しい、とは思っていなかった、にもかかわらず。


昨年、世田谷ものづくり学校で展示会が行なわれた新作の鞄は、橋の力学を基に考えられた「ブリッジバッグ」。橋の構造は、重さの圧力を柱が分散するように出来ていて、その強度とバランスを応用し、作られた鞄らしい。しかし、始めから橋と鞄の関係性に着目していたわけではなく、元々橋が好きで、橋の資料を集めているうちに、鞄に応用できないか、と考えるようになったと、伺った。
POSTALCOの展示や鞄を見て、いつも感動するのは、関係のないと思われるものを結びつけるそのダイナミックな思考と、それらがサンプリングされていく際の心地よさにある。(しかし、その軽やかなジャンプは、「身体」や「モノを運ぶこと」からは離れていかない。着地点はいつも、私たちが、鞄を持って歩く道であり、ノートを広げてメモを取る旅先であり、手紙を書く机の上なのだ。)


そのような、機能性や外見の美しさだけではない、目に見えない"響き"や"揺らぎ"のようなものに、手にした人が誰しもそれを自分のためだと思ってしまう、効用がある気がする。そこには"物語"がある。POSTLACOの"物語"ではなくて、POSTALCOを使うことで、初めて気付く"私の身体の物語"だ。
それは、天気が良くて、いつもより少し長く散歩した時かもしれないし、急いでいるのに、ドアの閉まる電車に間に合わなかった時かもしれない。もしくは、隣に人がいる時、鞄の持ち手を変えた時かもしれない。
結局、私たちはお気に入りの鞄を手に入れた所で、それを片手に携えて、日々の生活に勤しむことになるのだろうが、POSTALCOの鞄たちは、耳に差し込んだイヤホンのように、些細な幸福を連れてきてくれるかもしれない。
鞄の中に、"物語"が入り込む隙間が少しだけある。それが、POSTLACOの"デザイン"ではないだろうか。


(「Thinking with My Feet--POSTALCOの気になること」展に寄せて)




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