『花のズボラ飯』(作:久住昌之・画:水沢悦子、秋田書店刊)を読んだ。
(味覚の)「快」に関する潜在認知(無意識下の判断)と情動そのものを画によって描き、吹き出しがその結果(意識に昇った「快」)を補足している。
脳の動きが画面から溢れ、吹き出しまで占領していった『鈴木先生』の試みを思い出した。
しかし『花の~』には所謂ストーリーがない。おそらく吹き出しを全て塗りつぶしても、目紛るしく移り変わる風景として読める筈である(何があったのか詳しく聞かなくとも、「ギャッ」という叫び声とその表情から私たちは彼らの痛みを認知できる)。
沈黙劇のト書きに「......」とあるように(知らないけど)、演者はそれを言わずに存在する。
ところで『花の~』は、毎日の食生活を扱っているわりに現実感が乏しい。例えば、幽霊にも「快」は存在するだろうか。私は存在すると思う。ただし、そこにはストーリーがない(もう、あるいはずっといないから)。
現実には存在しないが、別の方法でそこにいる。それを「物語」と呼びたい。
『花のズボラ飯』(作:久住昌之・画:水沢悦子、秋田書店刊)
参考文献:『サブリミナル・インパクト―情動と潜在認知の現代』(下條信輔、ちくま新書)